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中庸は神様目線で

今日も中庸について書いていきます。

ともいきは『中庸』のことでもあるからです。

中庸でないといけないというのは中庸ではないんですよね。

わかりますか?

今日は『中庸は神様目線で』と題して、中庸について考えます。

 

世界一、幸せなみなさんへ

今日も読んでいただき
感謝しています。

そして、
幸せでいてくれて
ありがとうございます。

くろちゃんも、
いつも幸せを感じています。

くろちゃんは、
世界一幸運です。

毎日、
奇跡を感じている
くろちゃんです。

中庸は神様目線で

自分が世界になる

先日の輪読会の時、中庸が話題になりました。

ブログで書いた『プラス1が起これば、どこかでマイナス1が起こっている』をもう少し解説して欲しいと言われました。

その時はうまく解説出来なかったのでブログ上でチャレンジしてみたいと思います。

率直な疑問として、幸せになったとしてもどこかで不幸せがあるの?というような疑問がおこりますよね?

それもひとつの表れとしてあると思います。

しかし、そればかりではありません。

『人間万事塞翁が馬』という故事があるように、一見不幸に見えることが少し先の未来では、それがあったおかげでとなるかもしれませんし、その逆もありますよね。

時間や空間という概念をいったん脇に置き、自分と世界という分離感も脇に置いてこの世界を見渡したときに、『プラス1が起これば、どこかでマイナス1が起こっている』ということがなるほどとなると思います。

自分をいったん脇において、自分が世界になって欲しいのです。

イメージ出来ました?

世界を数字で表すと100だとします。

世界のどこかでプラス1が起こったら101になってしまいます。

あくまでもたとえですが、世界が100というのがこの世界のルールだとしたら、どこかでマイナス1が起こって100で帳尻が合うということです。

それは自分という視点や枠をもって世界をみているうちはわからないのです。

プラスマイナスという表現で書いていますが、要するに1セットだということです。

話し手がいるから聞き手いる。

得した人がいるのは損した人がいるから。

親がいるから子がいる。

先生は生徒がいるから先生。

何にでも相手があるということです。

ただ、自分に見えているものはプラスだけとか、マイナスだけのときがほとんどです。

先生は先生の立場でモノを言うし、生徒は生徒の立場でモノを言います。

プラスだけのとき幸せを感じ、マイナスだけのとき不幸せを感じます。

両方見えているときは、良いこともあれば悪いこともあるよねとなるのです。

視点を上げていく

得意の(笑)会社に置き換えて話します。

一般社員のときは責任の範囲は自分の役割だけです。

業績評価も自分がしたことだけで評価されます。

しかし、それが課長になると、その責任が課全体に及びます。

部下Aが良い成績を上げたとしても、部下Bの成績が悪ければ、課全体としてはプラスマイナスゼロです。

部長になると、それが部全体になります。

A課の成績が良くても、B課が悪ければ部全体としてはやはりプラスマイナスゼロになります。

その集まりが会社で、社長になると会社全体を見渡すことになります。

視点を上にあげていくと、個人のときは大きな出来事だったマイナス1が、社長(全体)でみたらほんの一部の出来事になってしまいます。プラスだって同じです。

タイトルにある神様目線というのは、もっともっと視点をあげて、神様の目線で世界を見渡すということです。

自分が世界になるということは神様の目線になるということです。

その時には時間も空間も超えて、この世界を見渡すことになります。

身近なことに置き換えると映画やドラマを観ている感じです。

神様には幸せも不幸せもないだろうと思います。

すべては自分の中で起こっていることだからです。

そうでしょう?

プラス1が起こってもどこかでマイナス1が起こることがわかっていたら、この世界はいつでもプラスマイナスゼロです。

そうすると幸せとか不幸せというジャッジはありません。

神様と人間の間に中間的な存在があるかはわかりませんが、同じ人間でも、どの次元からこの世界を見ているかは違いがあるかもしれません。

高い次元から見ていると、目の前で起こっていることだけで判断しなくなります。

視点が上がれば上がるほど、自分の中に許容されていくのです。

仕事でもそうですよね。

経験を積むと多少のトラブルは自己解決出来るようになります。

それは経験が浅い人よりも視点が高いからですね。

中庸で生きるとは?

そこで更に思うのはなんで世界は100なのか?

150でも200でもいいじゃないか?

つまり、幸せは無限に広がってもいいじゃないか?ということです。

もちろん、そう考えることは悪いことではありません。

しかし、それは視点を下げることです。

下げるというと否定されていると感じるかもしれませんので、言い方を変えると上を作るということです。

幸せというのは、不幸せがあるから感じられる感覚です。

比較するものがなければ幸せは感じられません。

病気になったから健康のありがたみがわかりますね。

健康なときは自分が健康だという自覚すらありません。

幸せになりたいとか、幸せになることを目標にするのは、自分の知らない幸福感があると思うことで起こる欲求です。

足るを知ると言いますが、いまで十分満たされていると思えば、今以上の幸せを目指すことがなくなります。

その代わりに幸せになれないという焦燥感からも解放されます。

神様目線になるとはそういうことです。

そして中庸で生きるとは、すべてを見渡し、足るを知り、満たされて生きることです。

先日のブログで、『中庸で一番大切なことは何も変えない』と書いたのは、変えないといけないと思っているうちは、足りていないという感覚があって、まだ神様目線になれていないからです。

ただ、人間として生きているうちは、いつも神様目線でいることは難しいと思います。

出来るときもあるし、出来ないこともあるでしょう。

それもプラスマイナスのマイナス部分です。

そう思って自分の中に許容していくことで、心の目線は神様目線に近づいていくと思うのです。

中庸は神様目線でのまとめ

今日は『中庸は神様目線で』と題して、中庸についてについて考えました。

自分が世界になる 
時間や空間という概念をいったん脇に置き、自分と世界という分離感も脇に置いてこの世界を見渡したときに、『プラス1が起これば、どこかでマイナス1が起こっている』ということがなるほどとなると思います。
自分をいったん脇において、自分が世界になって欲しいのです。

視点を上げていく 
タイトルにある神様目線というのは、もっともっと視点をあげて、神様の目線で世界を見渡すということです。
自分が世界になるということは神様の目線になるということです。
その時には時間も空間も超えて、この世界を見渡すことになります。
身近なことに置き換えると映画やドラマを観ている感じです。

中庸で生きるとは? 
中庸で生きるとは、すべてを見渡し、足るを知り、満たされて生きることです。
先日のブログで、『中庸で一番大切なことは何も変えない』と書いたのは、変えないといけないと思っているうちは、足りていないという感覚があって、まだ神様目線になれていないからです。

今日も読んでいただきありがとうございます。

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